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苦難

1914~1932年

大正3年~昭和7年

  • 1914/ 大正3年

    ストックボートにて短期間で船舶の建造を実施

    1914(大正3)年の第1次世界大戦勃発により軍需品や生活物資の発注が殺到し、好景気が到来しました。造船業界も活況を呈し、当社は駆逐艦や潜水艦などを相次いで建造。商船も好調で、5,000総トン級のストックボートを大量に生産しました。なかでも、「来福丸」は、起工後わずか30日で完成させ、短期建造の世界記録となりました。

    ※ストックボートは、見込みで船を生産し、同じ形の船を連続して建造することから、建造コストを下げることができます。

    ストックボートにて短期間で船舶の建造

  • 1918/ 大正7年

    兵庫工場に飛行機科を設置

    当時ロンドンに滞在していた松方幸次郎は第1次世界大戦での航空機の活躍ぶりに着目し、1918年に兵庫工場に飛行機科を設置しました。ライト兄弟の初飛行からわずか15年後のこと。まだ木と布で作られた飛行機が短い飛行距離を競っていたこの時代に航空機の製造に着手。

    その後、新たに飛行機工場を開設、日本初の全金属製飛行機を完成させて、今日の礎を築きました。1937年には柔軟な受注体制を確立させるために飛行機部門を独立させ川崎航空機工業(株)を設立します。

    当社初の航空機(乙式一型偵察機)完成

    当社初の航空機(乙式一型偵察機)完成

  • 1919/ 大正8年

    川崎汽船(株)の設立・「8時間労働制」の導入

    1918年に第1次世界大戦が終結すると、造船業は輸出市場を失い、ストックボートで建造していた造船が大量にストックされていました。松方幸次郎は、「わが国の発展のためには、造船を国外に売却するのではなく、国内に温存してそれを運航する海運会社を新設すべき」と考え、川崎汽船(株)を設立し、海運業に進出することを決意します。

    また、当時は各地で労働争議が起きており、当社でも賃上げが要求されていました。松方幸次郎は、欧米諸国の労働状況を早くから研究していたため、日本初となる「8時間労働制」を導入し賃金は従来同様に支給しました。

    川崎汽船本社/8時間労働制発祥の地の記念碑

    川崎汽船本社

    8時間労働制発祥の地の記念碑

    8時間労働制発祥の地の記念碑

  • 1928/ 昭和3年

    金融恐慌と整理

    第1次世界大戦後の金融恐慌などによって、当社は創立以来の経営危機に直面しました。役員報酬カット、幹部社員の減給などで再建の目途をたて、さらに資金調達の融資を受ける条件として、1928年に川崎車輌(株)を発足させました。

    その後、松方幸次郎は社長を辞任し、後任に鹿島房次郎が就任し、大幅な組織の改編や人事刷新などを行いましたが、世界大恐慌がおこり再び経営危機に直面しました。

    当社は神戸区裁判所に再建型の倒産処理手続きとして和議を申し立てました。そのさなか、翌年の7月29日に鹿島社長が急逝し、第3代目社長に平生釟三郎が就任し、和議成立に伴う諸手続きを完了させます。

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