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再起~復興

1933~1954年

昭和8年~昭和29年

  • 1939/ 昭和14年

    社名を「川崎重工業(株)」に変更

    経営の立て直しに全力を傾けた社長・平生釟三郎の後、1935年に鋳谷正輔が第4代社長に就任しました。航空機の重要性が高まり、生産体制の強化のため1937年に川崎航空機工業(株)を設立します。当社の事業は造船以外にも拡大し、社業にあわせて1939年12月1日、社名を「川崎重工業(株)」に変更しました。

  • 1941/ 昭和16年

    航空母艦・潜水艦を主力に

    太平洋戦争が始まると航空母艦・潜水艦の建造が主力となりました。最初の空母「瑞鶴」をはじめ、終戦までに「飛鷹」「大鳳」など30隻あまりを建造しました。太平洋戦争末期には本土空襲が本格化し、神戸も大規模な爆撃を受けるようになり、当社、川崎車輌、川崎航空機工業の各工場も甚大な被害に遭いました。そして、1945年に終戦の日を迎えます。

    空襲による神戸の被害

    空襲による神戸の被害

    瑞鶴

    瑞鶴

  • 1945/ 昭和20年

    戦後の復興とともに

    戦後、GHQにより「海軍艦船、航空機などの生産・修理の禁止」を命じられました。当社は、残存資材を活用して台所用品のフライパンや農機具の製造などにより、この苦境を切り抜けました。

    フライパン

    フライパン

  • 1950/ 昭和25年

    川崎製鉄(株)を設立

    「当社の存続と製鉄部門の分離による第2会社設立」を骨子として川崎製鉄(株)を設立しました。当社は造船部門を中心として、手塚敏雄が第5代社長に就任しました。

    川崎製鉄・本社

    川崎製鉄・本社

  • 1954/ 昭和29年

    ヘリコプタの製造を開始(ベル式47D型)

    戦後、1952年に対日講和条約が発効するまでは航空機の生産は禁止されていました。

    航空機の生産が再開された後も、その間のブランクは大きく、事業の再建は困難を極めましたが、当社では、岐阜工場で、4人乗り連絡機の設計に入り、1953年、KAL-1連絡機を完成させました。

    明石工場ではヘリコプタに着目、1952年にアメリカのベル・エアクラフト社と技術提携し、1954年に国産第一号の川崎ベル式47D-1型ヘリコプタを完成させ、順次6機を陸上自衛隊へ納入しました。

    川崎ベル式47型ヘリコプタ

    川崎ベル式47型ヘリコプタ

  • 1954/ 昭和29年

    バイクスクーター「川崎号」を発売

    当社の二輪車事業は、二輪車メーカーへのエンジン供給から始まりました。1954年には川崎岐阜製作所(現・岐阜工場)と共同でスクーター「川崎号」を発売しました。この「川崎号」はカワサキのマークを付けた最初の二輪車でした。

    バイクスクーター「川崎号」

    バイクスクーター「川崎号」

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